2022年12月上旬 寛解導入療法【希望の光】

闘病記【発症~治療】

一時退院できる!

入院以来、私は毎日決められた数のステロイド剤と抗がん剤を服用している。バイタル測定は1日3回が基本だ。そして毎回尿量を測り、用紙に記入していく。これが私のルーティンだ。

最初の1週間はほぼ寝たりきりだった。意識ももうろうとしていて、なんだか夢の中にいるような感覚だ。曜日も時間もあやふやになる。とにかく薬を飲むことに必死だった。採尿カップを持つ手がおぼつかなくて、何度もズボンや床を汚した。

次の1週間は腹水に苦しんだ。膨れ上がったお腹を右手で下から支え、左手で点滴スタンドにしがみつきながら病棟を歩いた。といっても歩けるのは10数メートルだ。行った先にあるデイルームのソファに腰かけて彼氏さんと電話をする。ただ、ずっと座っていることも苦痛だった。泣く泣く電話を切る毎日。

そして3週目に入った頃、急に咳が出始めた。レントゲンの結果、肺に水がたまっていることがわかった。これにより補液はすぐに中止され、利尿剤が開始された。どこへ行くにも引き連れていた点滴スタンドがなくなり、気持ちが楽になったのは良かったが、先の見えない入院生活に希望が見出せず、辛い日々が続いた。

次の日、見慣れない看護師が病室にやってきた。その看護師は、寝ている私と視線の高さが合うようにひざまずき、柔和な笑みを浮かべながら自己紹介をしてきた。そして、「不安に思っていることはないか。聞きたいことはないか。」と聞いてきた。がん患者に対する相談支援なのだと理解した。

私は「まな板の上の鯉」とばかりに治療は先生にお任せ、自分は毎日のルーティンを粛々とこなしているだけだ。何かないかと言われてもすぐには出てこない。それでも何か聞いた方がいいのだろうかと思い、「いつになったら働けるのか。」という経済的な不安があることを伝えた。

漠然としていてそこに答えはないように思えたが、看護師は優しくひとつひとつ、丁寧に答えてくれた。

そして、看護師の口からまさかの一言が飛び出した。

「先生、年末年始は家に帰してあげたいと言っていましたよ。」

え?え?え?それって、退院できるということですか?私は心の中で聞き直した。

実は、私の中で入院前からずっとずっと気になっていたことがあった。入院してからそれを聞く機会は何度もあっただろう。でも、怖くて聞けなかった。

そう、それがまさに今看護師の口から聞けたのだ。

入院前、「長い入院になると思います。」と言われたが、その「長い」がどの程度なのかわからないまま今日まで来た。インターネットの情報はまちまちだ。4か月と書いてあるサイトもある。面会もできない中で、ひとり孤独に病気と闘うのは辛いものだ。それが何か月も続いたらさすがに心が折れる。

今の今まで退院のことは考えないようにしていた。病院で年越しするものだと半ば諦めていた。それが、一時退院できるとわかった途端、その日が来るのが待ち遠しくて仕方がなくなった。

年末年始まであと3週間だ。

明確な目標を持つことの大切さ

一時退院の話は出たが、今のところ私の体調は良い状態とは言えない。腹水、胸水が溜まり、60㎏まで増加した体重はなかなか減らない。食事は流動食のような物しか食べられず、アルブミンの値が2.9と「低栄養」な状態で体力もない。それに加えて脚の筋肉は絶望的なほど削げ落ち、体を支えられるとは到底思えない。

退院するには体の中に溜まった水を抜かなければいけない。そしてもう少し食べないとだめだ。食べて体力をつける。そうすれば退院できる。

希望の光が見えてきた。

私はすぐに彼氏さんに連絡をした。私の帰りを待っていてくれる。1秒でも早く伝えたかったのだ。年末年始を一緒に過ごせると聞いた彼も大喜び。それを楽しみに仕事すると張り切っていた。

彼は料理が得意だ。入院前は毎日夕飯を作ってくれていた。そして入院すると、退院した時のためにレパートリーを増やしておくと言っていた。いつ退院できるかもわからなかった。そもそもその日がやってくるのか、それすらわからなかった。それでも彼は「今日はこんな料理を作ってみた。おいしかったから、帰ってきたら作ってあげるね。」と毎日のように写真を送ってくれる。彼の手料理を食べられる日が来るのだろうか、と不安になる時もあったが、すぐ手が届くところまで来たのだ。

私は「作ってもらいたい手料理リスト」を作ることにした。刺身などの生物と生卵以外なら食べて良いそうだ。リストは少しずつ増えていった。退院したら彼の美味しい手料理をたらふく食べるんだ。

年末年始に一時退院するという明確な目標ができたことで気持ちが前向きになった。最初は気持ちだけが先走り、食欲や体力がすぐに戻ることはなかった。それでも心の持ちようというのは本当に大切だ。彼と過ごす年末年始をイメージし、一生懸命に食べて、一生懸命に動いた。そして少しずつだが、私は確実に回復に向かっていった。

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