2022年10月 断捨離を始める。
あなたは見えない力を信じますか?
答えはイエス、とも、ノーとも言えない。
ふとした時に「あれは神のお告げだったのではないか。」と回顧することがある。
「いや、たまたまだ。結果論だ。」ともう一人の自分は言う。
今回のことはどっちだったのだろう。
10月に入り、私は何かにとり付かれたように衝動的にやり始めたことがある。
流行りの言葉を当てはめるなら「断捨離」だ。
20代前半で実家を出て一人暮らしをしている私。
身ひとつで東京に行ったり、さらには海を渡って異国の地で生活をしたりと、気ままに暮らしてきた。
その都度荷物を減らし、人との縁も切ってきた。
どこかに定住することは想定していなかった。だから物は増やさないと決めていた。
それでも同じ部屋に数年住むといつの間にか物が増えている。
着なくなった新品同様の服。
最後にいつ使ったかわからない電化製品。
10月のある日、そういった’余分なもの’がもう自分には必要ないような気がした。
捨ててしまいたい、リセットしたい。
夜な夜な私は一心不乱に断捨離した。「ミニマリスト」になりたかったわけではない。何かを残しておくことにもう意味がないと思ったのだ。
自分がこの世から消えた時に、自分の部屋にあるモノたちは他人にとっては不要なモノ。残された人に迷惑をかけないよう今のうちに捨てておこう。
その時私はそう思っていた。
体調が悪いこととはまったく無関係に、そう思った。
しきりに口にした「終活」という言葉。
この頃、急に口にし始めた言葉がある。「終活」だ。私はもう50歳に手が届きそうな年齢。いつ何が起きてもおかしくないと思っている。彼氏さんがいるとはいえ独身だ。断捨離をしながら、万が一に備え「エンディングノート」みたいな物も必要なのではないかと考えていた。
職場でも同僚に話していた。
「私、断捨離しているの。いや、終活といった方がいいかな。」
「何言ってるんですか。早過ぎますよ。」
と、同僚は笑う。真剣に取り合っていないようだ。もうそんな年なんですよ、私は。
それからしばらくしてその同僚に聞かれたことがある。「仕事、辞めたいと思ったことあります?」と。ストレスが多い職場。一度も辞めたいと思ったことはない、などという強靭な精神は持ち合わせていない。ただ、どの会社もそれなりにストレスはあるし、この歳で転職というのもどうか思い、最近は辞めたいとは思っていなった。ただ、ひとつだけ辞める理由があるとすれば…
私は、「ないことはないけど、私が仕事を辞めるとしたら病気で死ぬときかな。」と答えた。
病気で死ぬなんて、その時真剣にそう思っていたわけではないし、もちろん望んではいない。ただ、自然と口から出てきた。そしてふと、「その時のために私は物を減らしているんだ」と思った。
断捨離は続いた。
何を捨てるのか、何を残すのか。
生命保険の受取人は父親のままだ。ひとまずこのままでいいだろう。
私が死んだら友人には知らされるのか。連絡してほしい人のリストを作っておいた方がいいだろうか。
そんなことを考えながら、黙々と不要なモノを捨てる。
そしてついには車さえも手放そうという気持ちが湧いてきた。
人口40万人の中核市に住んでいるとはいえ、1人1台が当たり前の地域。車のない生活なんて考えられない人がほとんどだ。それでも思ったのだ。車なんて邪魔になると。(実際に車を処分するのはもう少し後になる。)
何かに駆り立てられるように断捨離を急いだ。見えない力が働いていたのだろうか、とも思う。
しきりに口にしていた「終活」と言う言葉。
虫の知らせか、予感か。
いずれにせよ、そういうスピリチュアルな力が多少働いていたのかもしれない。
振り返ると、私にとって2022年10月は生き急いだ時期だった。
そして2022年11月は運命が動いた時期だ。
続きは次回のブログで
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