一時退院の日
ついに来ました。この日が。
嬉しすぎて昨夜は夜中の3時に目が覚めてしまい、そこから寝られなかった。子供のころからそうだ。翌日に何か楽しいことがあると必要以上に早く起きてしまう。
入院当初は年末年始を家で過ごせると思っていなかった。突然の入院からおよそ6週間。長かったような、あっという間だったような、時間の感覚があまりない。ただ、退院日が決まってからの3日間は本当に長く感じた。
朝食を終え、一息ついてから荷物をまとめた。入院時は必要最低限の物だけを持ってきたが、少しずつ物が増えた。とはいえ片付けはあっという間に終わった。迎えは10時半。長すぎる。
落ち着かない。そわそわしている。自分でも笑えるくらい気持ちが浮ついていた。私はその気持ちを何とか落ち着かせようと、病棟を歩いてみたり、横になって目を閉じたりしてみた。
9時を過ぎると看護師さんが各病室を回って朝のバイタル測定を行う。「体調変わりないですか。」といつものように看護師さんから聞かれた。多少頭が痛いような違和感があったが、余計なことを言うと退院できないかもしれない、と思い黙っていることにした。
退院したいがために体調不良を申告しない。これも「患者あるある」というのを後から知った。私も漏れなくその一人だったわけだ。発熱は検温をするため看護師にすぐばれるが、それ以外は患者が自分から言わなければ隠し通せる。退院後に大事に至らなければ良いが、万が一のことを考えるとあまりお勧めはできない。私もこの時点では頭に多少の違和感があった程度だったが、一時退院中、ひどい頭痛に悩まされることになったのだ。病気になる前は市販の薬で何とかなっていたし、症状の経過を予測できた。しかし、白血病となった今、それまでの経験値はまったくもって役に立たない。
この時はそんなこと考えもしなかった。とにかく私は今日、10時半に退院するんだ、という思いが強かった。
そしてその時間を迎えた。
コロナ禍のため家族は病室に入ってこられない。病棟の受付で声をかけると職員が呼びに来てくれる。
「ご家族さんが迎えに来られましたよ。」
来た来た来たーー!
私は荷物をカートに載せ、受付まで運んだ。そこには6週間ぶりに見る母の姿があった。いつもと変わらない母。どれだけ心配をかけただろうか。やりとりはラインのみ。荷物の受け渡しも直接はできなかった。私の姿は果たして弱った病人に見えるだろうか。
母の後ろには父が立っていた。いつも寡黙な父。感情を表に出すことはめったにない。でもきっと、心配してくれたに違いない。私は精一杯の笑顔で「元気」をアピールした。
さて、久しぶりに病棟を出ることになる。果たして歩けるのか。カートは歩行器代わりにちょうどよい。私はカートを頼りに、車まで歩いた。
ふと空を見上げた。雲一つない晴天だった。病室から見る青空とはまるで違う。私は鼻からゆっくりと空気を吸い込んだ。ひんやりとした澄んだ空気が肺いっぱいに広がる。外に出られた。私は何度も深呼吸することでそれを感じた。そして最後に青空の写真を一枚撮った。
一時退院中は彼氏さんちでお世話になる。病院から10分程度の距離だ。その前にどうしても寄りたいお店があった。なんのことはない、スターバックスだ。入院するとそれまでの日常が日常でなくなる。そしてその日常がある日突然奪われると逆に欲求が加速する。白血病になると生物など食べてはいけないものが結構ある。果物ではイチゴが禁止されている。イチゴは特に好きなわけではなく、買って食べることはまずない。ケーキなどに入っていれば口にする程度だ。それなのに食べてはいけないと言われるとなぜか無性に食べたくなった。スタバも同じだ。数か月に1回行く程度だった。それなのに行けない状況に陥った私は、退院したら絶対行くんだと心に誓い、入院中はインターネットでメニューを何度も見て注文する商品を吟味した。退院後の最初の一杯は期間限定の抹茶玄米茶もちフラペチーノに決まった。
ドライブスルーで念願のフラペチーノをゲットし、彼氏さん宅に送ってもらう。荷物を持って歩けないため、父が運んでくれた。アパートの入り口にある一段の段差はかなり危険だった。膝おれして転倒したことを思い出す。母の支えでその段差を上がった。油断すると転ぶな、と感じた。やはり筋力は相当落ちている。部屋はアパートの1階だ。これが2階だったら、と思うと恐ろしくなった。
荷物を運び終えると両親は帰っていった。
静まり返った部屋。6週間前とおそらくは何も変わっていない部屋。彼はこの部屋で私を待っていてくれた。一人、孤独に。
今夜は彼氏さんの手作りディナーの予定だ。あと何時間かしたら会える。が、これまた時間が経つのが遅い。夜中の3時に目が覚めたこともあり、私は昼寝をして待つことにした。病院のベッドではない布団で寝るのは久しぶりだ。「娑婆はいいな~」などと思いつつ眠りについた。
彼との再会に涙する。
電話が鳴った。
「今から帰るよ!」
彼氏さんからだった。外はすっかり暗くなっていた。それから20分くらいして彼氏さんが帰宅した。
「ただいま!」
「私も、ただいま!」
お互い「ただいま」だ。
満面の笑みで帰宅した彼だったが、部屋に入り改めてお互いの目が合うと、感情を抑えきれなくなったのだろう。彼の目は涙でいっぱいになっていた。我慢していた私もつられる。一人この部屋で私の帰りを待っていた彼のことを思うと、会えて嬉しいというより、さみしい思いをさせてごめんね、という気持ちのほうが強くなった。しばらく私たちは、お互いの気持ちを確かめるように抱き合い、辛かった気持ちを涙で浄化した。
この日の夕飯は新しくレパートリーに加わったというチキンの煮込みだった。病院の給食とは違う、しっかりと味がついた柔らかいお肉。おいしいものを好きなだけ食べられる。なんという贅沢なひと時。入院中の辛かった気持ちもいっきに吹き飛び、私の心は幸福感で満たされた。
明日から何を食べるか。どこに行こうか。彼氏さんと一緒に毎日の予定を立てた。一時退院の期間は2週間ほどだ。時間に限りがある。1日たりとも無駄にしたくない。時間は有限だ。病気になって思い知らされた。
人生は有限なのだ。
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※入院初日と退院時の血液データの比較※
入院初日 | 退院前日 (入院36日目) | 基準値 | |
白血球 | 3万5,000 | 3,960 | 3,300~8,600 |
赤血球 | 310万 | 262万 | 386万~492万 |
血小板 | 2万7,000 | 16万6,000 | 15万8,000~34万8,000 |
AST | 170 | 14 | 13~30 |
ALT | 178 | 36 | 7~23 |
LD | 2824 | 249 | 124~222 |
尿素窒素 | 14.4 | 18.5 | 8~20 |
血清クレアチニン | 0.72 | 0.78 | 0.46~0.79 |
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